風は冷たくて、だが真冬というには少し優し過ぎた。雪になり損ねて落ちてきた気の早い小さな水の粒が、さあさあと軽やかな音を立てる。何処か霧に似た白く霞んだ景色は、忘れかけていた遠い記憶を思い出させる。懐かしい景色を見回しながら、アルトリアはゆっくりと歩いた。
 歩き慣れた道がいつもと違う表情を見せる。何度も歩いた道。雨の日にも通ったことは幾度もあるのに、今日に限って少し特別に感じているのは、一人で歩いているからか、それても漸く、過去に向き合える余裕が出来てきたからか。ずっと、前だけを見て歩いてきた。脇目も振らず前進していると信じていた。それが只眼を背けたい過去から逃げているだけだと教えられたのは、今よりも少しだけ寒い冬の日だった。左手に下げた傘を握る手に力が篭る。拍子に揺れた先端が道路に触れて、低く飛沫を上げた。
 耳朶を叩くのは雨音だけ。慣れてしまえば、それは静寂と変わらない。視界を埋めるのは細い雨粒だけ。薄いカーテンに隠されてしまえば、それは何も映らないのと同じ。止まった世界の中に一人いるようだと、アルトリアは思った。寂寥を覚える筈の景色をだがこうも穏やかに見つめられるのは、この胸に消えない暖かさがあるから。濡れた草木。黒いアスファルト。傘の端から落ちる雫。水溜りに広がる、幾つもの波紋。こつこつというブーツの足音が、時折浅い水溜りを踏んでは歌うように響きを変える。何とはなく歌い出したくなって、アルトリアは口の中で小さく旋律を紡いだ。大河から教えられた、この国の古い童歌。

 暫く歩いていると、アルトリアの鼻歌に賑やかな声が混ざり始めた。
 学園へと続く坂から降りてくる、色取り取りの傘。下校中の生徒達は、楽しげな、或いはつまらなげな声を立てながら、アルトリアの脇を擦り抜けていく。その様はまるで、時間を止めていた世界が忙しなく動きだしたようだ。景色は色彩を取り戻し、大気が囁くべき歌を思い出す。音色も音程も様々な楽器が好き勝手に音楽を奏で出して、さわさわという、何処かくすぐったい交響楽で世界を満たしていく。この感情は何だろう? それに名前を付けようとして、アルトリアは首を振った。きっと名前を付けてしまえば、愛しいような、切ないようなこの気持ちは、途端有り触れたものに褪せてしまう。それは余りに無粋だろう。……その言い様はまるで何処かの風流な剣士のようだ。アルトリアは笑った。

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