背骨から力が抜けて、鶴屋さんは長門の上に折り重なるように崩れ落ちた。ぜいぜいと熱い吐息が頬に当たる。それは悪い感触ではなかった。もっともっと感じたくて、自分の体液でべとついた長門の頬に、自分の頬を摺り寄せる。 ――長門が耳元で小さく、また誰かの名前を呼んだ。 「………………・・・・……」 蕩けた頭の隅で、そういえば普段あだ名でしか呼ばれない、良く知った後輩の本名もそんな名前だったなぁと、そんなことをぼんやりと思った。
「ゴメンね有希にゃん」 頭に上った熱が愛液と一緒に吐き出されると、残ったのは深い後悔だった。精根尽き果て未だ起き上がることも出来ない長門を見下ろして、血を吐くように鶴屋さんは頭を垂れた。荒い息を吐いていた長門は、その言葉にふるふると首を振って、 「……誘ったのは、私」 「……それでも、ゴメンさ」 そう零した鶴屋さんを、長門はただじっと見上げる。湖面のような静かな瞳。見透かすようなその視線を、もう不快には思わなかった。 長門が動けるようになるのを待って、二人で部室の片付けをすることにした。長門が着替えていたこともあって、幸いお互い制服は汚れていなかった。近くの水場でハンカチを濡らして身体を拭うと、後はポケットティッシュであちこちに飛散した滴を拭って回るだけで事は足りた。 「ねぇ、有希にゃん。どうしてあたしだったのさ?」 自分が撒き散らした飛沫を拭いながら、鶴屋さんは長門にそう問い掛けた。 「…………」 ……鶴屋さんの問いに、長門は無言だった。だが長門が答えなくとも、鶴屋さんには想像がついていた。――押し黙ることしか出来ない、彼女の不器用な優しさにも。 「そっ、か。有希にゃんも同じなんだね……」 呟いて、鶴屋さんは脱ぎ捨てられた衣装を眺め見た。――その向こうに、それを本来着せたかった、愛しい少女を想う。 彼女を親友だと感じる半分の自分と、彼女を一人の女性として欲するもう半分の自分。それらは何時の間にか鶴屋さんの中で混ざり合って、一つの感情となって鶴屋さんを駆り立てていた。人はそれを愛情と呼ぶのだろうか? 鶴屋さんには自信が無かったし――それに。自分がどんなに勇気を振り絞ったところで、彼女が応えられないことは、分かっていたから。 ここではない何時かに自分の居場所を持つ彼女。何時か自分の居場所に帰ってしまう彼女。どんなに恋焦がれても、決して自分のものにはならない――遠い、人。 想いを告げる気は無かった。それはきっと、彼女にとっては重荷にしか、ならないだろうから。だからずっとひた隠しにしていく。そんな覚悟は、とっくにした筈なのに。自分の中の雄が首を擡げる度、どうしようもなく不安になる。 ……長門も同じなのだろう。自分の使命のために、決して想ってはならない人を愛してしまった彼女。こんな衣装を纏って抱かれる妄想で、いつも自分を慰めているのか。――それとも、こんな風に荒々しく抱かれた過去が、彼女にはあるのか。想いが通じ合って、愛し合って、でも他の誰かのために諦めて、全てを無かったことにした――そんな過去が。 きっと彼女もとうに覚悟を決めたつもりだったのだろう。だから頑なに写真撮影を拒んだ。彼が目にして、そして思い出してしまうことを恐れたから。……でも時折不安に駆られるのだ、きっと。彼に思い出して欲しいと叫ぶ、自分の本心に気付く度。どうしようもなく。 鶴屋さんは鞄からデジカメを取り出した。スライドモードに切り替えると、最初に長門のコスプレ姿が映し出される。……これを撮ってもいいと、どんな思いで長門は頷いたのだろう。自分には想像することしか出来ない。じっと液晶に映る長門の瞳を見詰める。黄色いドットは、だが彼女の真意など伝えてくれる筈も無かった。 鶴屋さんは苦笑してメニューを開いた。網膜に焼き付く程画像を眺めて、鶴屋さんは静かに、カーソルを削除へ合わせた。
片づけが終わって一息ついた頃。漸く扉の向こうから、がやがやと賑やかな声が近付いて来るのが聞こえた。その中には、愛しい彼女と彼の声も混じっている。何とはなしにその声に耳を傾ける。愛しい声音。その声で自分の名前だけを呼んでくれれば、どれ程の幸せに包まれるのだろう。あの鈴の音を聞く程、そんな感情を押さえられなくなる。 ――だが愛しい囀りを、一際賑やかな声が掻き消してしまった。同じように、自分の中の感情も、いつの間にか吹き消されてしまう。忌々しいと思ってもいい筈なのに、寧ろ安堵している自分。それを喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、鶴屋さんにはやっぱり分からなかった。 嘆息して顔を上げる。するとぱったりと長門と目が合った。 ……もしかして長門も同じように、彼の声につられて顔を上げていたのだろうか。心が通じ合った訳ではないけれど。同じ何かを共有したような気がして、鶴屋さんは微笑んだ。 だが一方の長門は、そんな鶴屋さんの思いを知ってか知らずか、そ知らぬ顔で本に目を戻してしまった。 「あららっ」 肩透かしを食らって、鶴屋さんの身体が斜めに傾いた。 「相変わらずつれないねっ有希にゃんはさっ」 もう身体を重ねた間柄だと言うのに。これは一般的に見れば相当深い仲なんじゃなかろうか。もっと構ってくれてもいいのににゃー。……そんなことを呟いて、はたと思い出す。そういえば、最初にしたいと思ったのは、身体を重ねることでは無かった筈だ。 鶴屋さんはにかっと笑った。とっておきの悪戯を思い付いたように――口の両端を大きく吊り上げた、いつもの笑顔で。 「ねぇ、有希にゃん。またどうしても耐えられなくなったらさ――」 長門に近寄って声を掛ける。ついと顔を上げた長門の顔の、もう熱も冷めた色素の薄い唇を掠めるように奪って、 「――今日みたいに、傷の舐め合いっこしよっか」 僅かに頬を赤く染めた長門は躊躇うように視線を彷徨わせ――だが最後には鶴屋さんの目を見て、こくり、と小さく頷いた。