七つ夜(ななつよ)

 残暑も下り坂に差し掛かった早い夕暮れ、俺は家までの坂をいつものように登っていた。未だ日中は暑いとさえ感じるものの、日が沈みかけると夏服では少し肌寒い。身震いの拍子に滑り落ちかけた鞄を持ち直して、俺は小走りに家へと急いだ。
 大分見慣れた大きな門の前では、いつものように翡翠が俺を待っていた。俺を見つけると淡く微笑んで、いそいそと門を開ける。以前は中々見せることの無かったこういった柔らかな表情も、今では何気なく零すようになっていた。軽く息を切らせる俺に、翡翠は深々と頭を下げる。
「お帰りなさいませ、志貴様」
「ただいま。翡翠」
 だが翡翠は普段、使用人としての立場を崩そうとはしなかった。仲が秋葉公認のものとなってからも、翡翠は相変わらず俺のことを“志貴様”と呼ぶ。翡翠は俺の恋人なんだから――そう囁く度、頬を染め恥らってはくれても。それは身に染み付いてしまった使用人としての教育の所為だろうか――それとも、琥珀さんに対する後悔が、翡翠を頑なにさせるのか。決して、翡翠はその理由を話そうとはしなかったけど。
 幾度の夜を重ねて、漸く俺は気長に構えることにした。いつか翡翠も自分を許して、かつてのように他愛も無い笑顔を浮かべる日が来るだろう。多少時間が掛かっても構わない。――何せ。俺達はこれから、一生寄り添って生きていくのだから。
「これからのご予定は?」
「ん? ああ、適当に部屋でごろごろしてるよ。夕食になったら呼んで」
「畏まりました」
 忙しなげに去っていく翡翠を見送って、俺はベッドの上で身体を伸ばした。さてこれから何をしようか。俺は時計を見上げて思案した。夕飯まで後2時間程、部屋にいるとは言ったものの、この何も無い部屋ではすることが無い。昼寝して潰してしまうには勿体無い気もするが、かといって他に出来ることと言えば受験勉強くらいだ。だが学校から帰ってきたばかりで、とてもではないが机に向かう気になどなれなかった。
「まぁ、翡翠が呼びに来る頃までに戻ればいいか」
 あっさりと意思を翻して、俺は立ち上がった。取り合えず屋敷の中でもぶらぶらすることにする。途中で翡翠に会えばその旨を断ることも出来るし、仕事を手伝ってもいいだろう。翡翠と他愛無い話をしながら過ごすと言うのは、翡翠に手伝いを了承させる困難を含めても中々名案である気がした。そう思うと俄然やる気になって、俺は意気揚揚と部屋を出た。


 この時間帯なら屋敷の中にいる筈だが、思い当たる場所に翡翠の姿は無かった。
「屋敷に居ないとなると花壇の方か?」
 全てが終わったあの日から、翡翠は裏庭にあった花壇を世話するようになった。多分琥珀さんが作ったものだろう。その中央には、幾本もの向日葵が植えられていた。――それは恐らく、琥珀さんが好きだった花。手入れする主人を失ったその花壇に、翡翠は甲斐甲斐しく世話を焼いている。
 花壇の世話は手伝いを申し出ても断られ難いものの一つだ。それまで花の手入れなどしたことなど無かったのだろう、翡翠が花壇の前で途方に暮れていることがしばしばあった。……とはいえ俺も花に詳しくは無いので、手伝うといったところで出来ることなどたかが知れているのだが。そんな二人が世話している花壇は中々に目を覆いたくなる惨状であったが、その中で向日葵は存外なしぶとさを見せていた。猛暑にノックダウンされていく他の花を尻目に、夏休みの初めには大輪の花を咲かせ、時期が終わっても尚、未だ数本が咲き続けている。
 普段手入れをする時間ではなかったが、屋敷の中をこれだけ探しても見当たらないのだから、庭に居るのは確実だ。俺は屋敷から出て、裏庭へと足を向けた。


 裏庭へ向かって暫くすると、向こうから小さく声が聞こえてきた。以前「花に話し掛けると良い」と何かで読んで以来、翡翠はことある毎に花に向かって声を掛けるようになった。だからまた翡翠が何か話し掛けているのだろう。俺はにやけながら足音を殺した。微笑ましいその場面を目撃されることを、翡翠は酷く恥ずかしく思っているようであった。ならばここは後ろから脅かして、その後翡翠が見せるであろう痴態を存分に堪能するのが恋人としての義務ではなかろうか?
 裏庭へと続く屋敷の角へ差し掛かると、俺は足を止めて影に隠れた。前回は俺に対する愚痴めいたことを話していたが、今回ははてさて何のネタであろうか。息を殺して耳を済ませると、話し声の代わりに、囀るような緩やかな旋律が耳を擽った。
「唄?」
 翡翠が唄っているところなど初めて聴いた。俺は思わず物陰から顔を出して、裏庭を覗き込んでいた。
 ――そこに居たのは、図らずも翡翠では無かった。
 彼女は以前と変わらない所作で竹箒を操りながら、鼻歌のような小さな声で聞き覚えの無い調べを口遊んでいた。その澄んだ声で紡がれる唄は心地よくて、思わず耳を傾ける。俺の知らない、何処か異国の数え歌。
 その唄は子守唄のようだった。恐らくこことは違う遠い場所の、古い民謡。子供の寝顔を可愛いと慈しみつつも、中々寝付かず毎夜泣き喚く声を煩わしく思ってしまう若い母親を歌った、何処にでもある子守唄だ。――なのに何故か、言い様のない違和感を、その唄に覚えた。
 音程が間違っているのか? いや、聴いた覚えも無い唄にそんな感想を持つ程、自分に音感があるとは思わない。ならなんだろう? もっとよく聴き取ろうと耳を澄まして、聴き取り辛い歌詞の意味を漸く理解する。
 子を思う唄……? そんな筈が無いのだ。子供を慈しむ母親が、自分の赤ん坊にお前さえ生まれてこなければなどと言ったりするものか。自分の子供を殴り殺して、埋めたりなどするものか!
「……何だ……この唄――」
 ……それはただ帰らぬ夫を待ち続ける夜を指折り数える女の、呪詛の唄だった。
 それを理解したとき、やっとこの悍ましさの正体を悟った。
 彼女の歌声は、あまりに綺麗なのだ――そこには乳飲み子を残して別の女と逃げた夫への、恨みも、悲しみも、何も含まれてはいなかった。ただ只管、無垢に記憶の楽譜をなぞっているだけ。その透明な歌声はとてもとても美しくて耳を塞ぎたくなる。
 そこに、憎悪が込められているなら良かった。嘆きがあるなら、まだ救われた。でも彼女の歌声には何も無い。きっともう、彼女には――何も無いのだ。泣き止まない子供を殴りつける母親の唄。やがて動かなくなる赤子の唄。そんな赤子を埋めても返らない男の唄。七日七晩泣き通して、自分も首を括る女の唄――。そんな唄を彼女はずっと、無表情に唄い続ける。
 吐き気がする。何も聴かなかった振りをして、俺は踵を返そうとした。
 ――ぱきっ。
「――――っ!」
 枯れ枝の折れる音は静寂の中、滑稽な程響いた。彼女は怯えるように肩を震わせると、竹箒を指が白くなる程握り締めてこちらを振り返った。その顔は寧ろ彼女の方が折檻を受ける子供のようで、俺は意味も無く同じように顔を歪めた。
「嫌だ、聞いてらしたんですか、志貴さん」
 俺の姿を認めると、彼女は直様顔に笑みを貼り付けて戯けた。強張った頬に無理矢理被せた笑顔は何処か引き攣って、彼女の意思とは裏腹に、泣き笑いのような、いつもの彼女のそれとは似つかない醜い表情を取った。そんな彼女の顔に気が付かない振りをして、俺も同じように笑って戯ける。
「ごめん、盗み聞きするつもりはなかったんだけど」
「もう、本当にびっくりしたんですからね」
「だからごめんって」
 一頻り笑い終えると、気不味い沈黙が辺りを覆った。俺は立ち去ることも出来ず、かといって話をはぐらかすことも出来ず、結局無様に黙り込んだ。沈黙は僅かだったろうが――その一瞬が、永遠にも思える程。
「――さっき、急に思い出したんです」
 沈黙を破ったのは、意外にも彼女の方だった。
「多分、子供の頃母が唄ってくれた子守唄だと思うんですけど」
 でも子供にこんな唄を歌って聞かせるなんて、酷いですよね。そう言って彼女は笑って見せた。
「こんなおどろおどろしい唄で眠れるものなんですかね」
「うーん。俺は眠れそうにないなぁ」
「そうですよね」
 でも、この唄で眠っていたんでしょうね。彼女は伏目がちに呟いて、視線を逸らした。その視線の先には、既に枯れてしまった――恐らく、彼女が好きだった花が在る。
 不意に彼女を抱き締めたい衝動に駆られた。彼女の細い身体を引き寄せ、唇を嬲り、裸身を曝け、彼女の全てを彼女を絡める荊から奪い去ってしまいたかった。そうすればきっと彼女の古い傷痕は掻き毟られて新しい傷で覆われ消えてしまうから。そう思った瞬間、俺は反射的に彼女へ手を伸ばしていた。
 ――だが、その手が彼女に届くよりも早く、彼女の瞳が真っ直ぐ俺を射る。否応無く翡翠の顔を思い出させる、琥珀色の瞳。俺は伸ばした手を力なく下ろした。
 そうだ、もうそんなことは出来ないんだ――俺は自嘲するように唇を歪めた。だって俺はもう、選んでしまっているから。あの窓からいつも俺を見下ろしていた少女の眼差しを捨てて、俺は差し伸べられた手を掴んでしまったから。何故なら俺はもう、失敗しているから。あのとき間に合った筈の彼女を、止めることが出来なかったから。
 ――俺にはもう、彼女を救う資格など、有りはしないのだから。
「ところで、どうしたんです志貴さん? こんなところで」
 お腹でも空きましたか?と首を傾げる彼女に、俺は曖昧に頷いた。そんな俺を彼女は「食いしん坊ですねー」と笑う。
「仕方ないですよ、育ち盛りですから」
「はい。一杯食べてもっと丈夫になって下さいね」
 志貴さんは只でさえ貧血持ちなんですから。そう言って彼女は朗らかに微笑んだ。その笑顔は、いつもの彼女の面。
「秋葉様がお帰りになるまでまだ時間がありますから、御夕飯の準備は出来ませんけど、後でおやつでも作って差し上げますね」
 居間かお部屋で待ってて下さいねーと言う彼女に、俺は素直に頷いた。
「有難う、七夜さん」



「――志貴様」
 部屋に戻ると、扉の前には翡翠が落ち着かない様子で佇んでいた。俺を見つけると安堵したように名前を呼んで一礼する。恐らく部屋に居ると言った筈の俺の姿が見えないので慌てたのだろう。
 ……ごめんごめんと一言詫びれば済む話だ。分かっている。なのに、翡翠を前に頑なになっていく自分を自覚する。慌てさせられたことの意趣返しか、翡翠は軽く非難の篭った眼差しで俺を見返した。
「志貴様、何方へいらっしゃったのですか?」
 感情を表に出したがらない翡翠の、心を許しているが故の態度。なのに何故か――それを許容出来ない。
「何処だっていいだろう」
 飛び出た言葉は思った以上に硬く鋭かった。翡翠は驚いたように眼を見開いて身を震わせ、申し訳ありませんと呻くように呟いて俯いた。
 胸中に過ぎったのは苦い後悔だけだった。伏せられて見えない翡翠の顔がどんな風に歪んでいるのか、手に取るように想像できた。青白くなる程固く握り締められてた指先、前髪の隙間から覗く、血の気を失った唇。見るに耐えなくて、俺は翡翠から視線を逸らした。
「……部屋に居る。夕飯になったら呼んでくれ」
「……はい。申し訳ありませんでした」
 それ以上翡翠に優しく出来る自信は無かった。俺は取り繕うように何とかそれだけの言葉を搾り出すと、勢いよく扉を引いて部屋へ逃げ込んだ。後ろで翡翠が視線を向けていることを知りつつ、その眼前で扉を閉ざす。ばたん。それは確かな、拒絶の音。力なく寄りかかった扉の向こうで、弱々しい足音が去っていくのをぼんやりと聞いた。




 窓から外を見下ろすと、裏庭が一望出来る。そこに広がる幾つもの花壇。殆どの花が枯れ落ちてしまった花壇の前で、彼女は踊るように箒を振るっていた。飽きることなく紡がれる透明な唄はまるで子守唄のようで――胸に掻き抱くように持たれた竹箒は、母親の腕の中であやされる赤子のようだった。



了



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