貴方へ贈る花籠。

 ――五月。
 並木道に咲き誇っていた桜はとうに散り、青々とした葉が日の光を受けてきらきらと輝いていた。それでも八重桜だけは、葉の隙間から綿毛のような柔らかな花を覗かせている。土手には白詰草と春紫苑の白い花が咲き誇り、おいでをするように、穏やかな風にゆらゆらと揺らめいていた。手招きにつられて、カルボナーラが鼻を寄せる。勢い良くリードを引かれて、エステルは軽くたたらを踏んだ。
「こぉら、カルボ」
 怒ったような口調とは裏腹に、その顔には笑みが浮かんでいた。エステルが手馴れた手付きでリードを引くと、カルボナーラは大人しく従った。
「全く、カルボはいつまで経っても落ち着きがないんですから」
「俺が一人だとこんなにはしゃがないよ。エステルが一緒だから嬉しいんじゃないかな」
「そうなのでしょうか? 全く...」
 達哉がそう言うと、エステルは顔を綻ばせてイタリアンズを見た。いとおしくて堪らないといったその笑顔を見て、達哉もまた目を細める。こうして度々2人で散歩に出掛けるようになって、もう8ヶ月余り。
「今日は日差しが強いですね」
「まだ5月になったばかりなのにね」
 この日の日差しは、まだ遠い筈の夏を感じさせた。恨めしげに太陽を見上げて、達哉はうっすら汗の滲んだ首筋を撫でる。繋いだ掌も汗ばんでいたが、こちらは真夏日だろうと離す気は毛頭無い。それはお互い様らしく、達哉が軽く力を込めると、エステルもまた指を握り返してきた。そんな仕草の一つ一つに心が繋がっていることを感じて、達哉は幸せな笑みを零すのだ。
「ふぅ、やっと到着...っと」
 小半時も掛けて、2人は漸く目的地へと到着した。遥か水平線を見下ろす小高い丘の上。生い茂った草花に隠れるように、盛り土のようなものが見える。風化し、最早風景に溶け込んでいる土肌には、良く見れば人工物であることを主張するように幾何学的な線が走っていた。――それは、人類が遺跡と呼ぶもの。
 ここ一月程、達哉達は散歩のためにいつもの公園ではなく、この遺跡に訪れていた。達哉の父、千春が残した研究資料から、フィーナが軌道重力トランスポータ基地を発見して3ヶ月。調査が完了し、本格的な稼動に向けての建設計画が発表され、物見の丘公園は先月から閉鎖されている。月と地球の交流が活発になることは勿論喜ばしいことではあったが、そのお陰で散歩コースに頭を悩ませることになったのは確かだ。フィーナはその辺りもきちんと配慮してくれるそうで、公園も一部はそのまま残るそうだが、今はまだ人が溢れていて落ち着いて歩ける場所では無かった。
 そんな事情もあって、2人はこの遺跡がある丘まで足を伸ばしていた。礼拝堂からは少し距離があったが、他の人が滅多に訪れないこともあって、落ち着いたこの場所をエステルはいたく気に入っていた。
「ほら、行って来なさい」
 エステルがリードを離すと、イタリアンズは弓から放たれた矢のような勢いで飛び出していった。お互いにじゃれ付いては草の上を転げ回る。その光景をひととき眺め、エステルは達哉の隣に腰を下ろした。
「ここは風が気持ちいいですね」
「そうだね...空が近いからかな」
 丘には穏やかな風が吹いていた。晴れ渡った蒼穹に負けじと茂った鮮やかな緑の野には、まるで満点の星空のように野花たちが咲き誇る。風に揺れる小さな花は、大気に揺らめく星の光のようだった。
 滅多に人が来ないため、遺跡には幾つもの草花が思い思いの花を咲かせている。初めて訪れたとき、あまりの美しさにエステルはペットショップに行ったときのように目を輝かせたものだった。それ以来、散歩のときは咲いた草花を歩き眺め、帰ってはその花の名前を調べるのが常になっていた。
「達哉。私たちも歩きませんか?」
 エステルが手を差し出す。そして彼女の誘いを断る理由など、達哉は持ち合わせていないのだった。


「あら?」
 散歩の途中、ふとエステルが立ち止まり、白い花の前で腰を下ろした。
「これは何の花でしょう? 達哉、分かりますか?」
「何だろ?」
 先週2人でここを歩いたときには見なかった花だ。細い茎の先に、五枚の白い花弁を広げた、小さな花。達哉はエステルの隣に膝を突いて、花をしげしげと眺める。ぎざぎざした縁の葉が特徴的ではあったが、記憶の中に思い当たるものは無かった。だがその花の下を見て、達哉はああと頷く。
「もしかして野ばらかな」
「バラ...ですか?」
「うん。ほら、棘があるでしょ」
 軽く倒して茎を見せると、そこには確かにバラを思わせる鋭い棘が並んでいた。
「本当...。これもバラなんですね...普段見かけるバラとは随分違うので分かりませんでした」
「確かに随分違うね」
 幾重にも花弁を捲いて大輪の花を咲かせるバラとは違い、その5枚の白い花弁は、他の野花に紛れてしまいそうな程小さく可憐だった。だが日の光に向けすっくと伸びる葉や茎には力強ささえ感じる。その姿に、細い身体で自分たちを支えてくれる大切な家族の姿を達哉は重ね合わせた。
 バラ、と聞いて、達哉は先日の菜月との会話を思い出した。
「そういえばもうすぐ母の日だなぁ」
「母の日?」
 達哉の言葉にエステルは首を傾げた。バレンタインもそうであったが、月では教団や王家に関するものが殆どで、地球程多種多様なイベントは無い。達哉は頷いて、
「ああ。5月の第2日曜に、母親に日頃の感謝を込めて花を贈るんだ。カーネーションを贈るのが普通だけど、バラを贈ったりもするって、この間聞いてさ」
「カーネーション、ですか? ...ああ、花言葉ですね」
「そう。確か『母への愛』だっけ?」
「ええ」
 そう呟いて、エステルは野ばらへと視線を戻した。軽く目を伏せたその横顔が何処か寂しげに見えて、達哉は息を呑んだ。
 ...エステルは孤児だ。男親代わりのモーリッツは居るが、母親代わりとなってくれる人が居たのであろうか? 自分の迂闊な話題を呪うように、達哉は唇を噛み締めた。何故もっと早くそのことに思い至らなかったのか。しかしそんな達哉の様子に気付いたエステルは、大きく首を振って達哉の杞憂を否定する。
「いいのです達哉。私はもう、孤児であることに拘っていないのですから。そのように気を使われると困ります」
「ご、ごめん...」
 それに、とエステルは続けた。
「母親が居ないのは、達哉も同じでしょう?」
「そうだけど...俺には姉さんが居るからさ」
 母親が無くなってからは、さやかが達哉と麻衣の母親代わりだった。だから毎年母の日には、さやかにカーネーションを贈っていた。
「母親でなくともいいのですか?」
「多分。うちは姉さんが母親代わりをしてくれてるっていうのもあるけれど、いつもお世話になってる人に贈ったりもすると思う」
「――でしたら、私もカレン様に贈ろうと思います」
 エステルの言葉に、達哉はそうかと頷く。彼女にも、自分にとってのさやかのような存在がすぐ傍に居たのだった。
「いいと思うよ。カレンさんも喜んでくれると思う」
「ええ」
 ほっとしたような笑みを浮かべた達哉に微笑み返して、エステルは立ち上がった。達哉がそれに続き、当然のように手を差し出した。エステルもまた、その手に当然のように自分の指を絡ませる。そして顔を見合わせて、2人は微笑んだ。
「でもどんな花がいいんだろうね? やっぱりカーネーションかな?」
「それもいいですが――」
 そう言って、エステルは来た道を振り返った。――視線の先には、風に靡く、花の群れ。彼女もまた、その可憐な花に誰かを重ね合わせているのだろうか。
「白い薔薇を贈ろうと思います」
「白薔薇? どうして?」
「白い薔薇の花言葉は――」





 ――5/14。
 カレンの元に、一つの花籠が届いた。
 中には籠一杯の白薔薇と、小さなメッセージカード。
 日頃の感謝が綴られたメッセージカードの最後はこう締め括られていた。
   ――――『尊敬』するカレン様へ。
 カレンはカードを誰かの代わりのように掻き抱くと、いとおしげに目を伏せた。――こんなに近くに居るのに、手渡しも出来ない恥ずかしがりの妹を想って。

END



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